やり直すチャンスをくれる人

2017.11.16【 人生を歩こう
太尾和子さんや上原英子さんのような、海外在住の日本人の方とやり取りしていると、しみじみ「これっていいなぁ」と思う瞬間があります。

そのひとつが、話し合いに応じてくれること。といっても話し合いなんて大げさな事態に至ったことはないんですが、互いの意見を出し合うことが基本で、こちらが誤った対応をしてしまった時でも話をさせてくれるのです。その中で私自身がどこで何を間違えたのか認識できますし、何より、一度失敗したからって切り捨てられることがありません。やり直すチャンスをくれるのです。

日本に住む日本人同士だと、なかなかそうはいかないことが多いですね。もちろん話をしてくれる人はいるし、そういう人とは長くお付き合いを続けていけるのですが、そうでないことが多いと感じています。「いいよ。もういいから」が実は全然良くなくて、一度失敗したら、あるいはイエスでない意見や質問を出したらそれっきり遮断。話もさせてもらえない。

実はこれ、他人事ではなく、私自身もそういう面が顔を出すことがあります。で、自分がしてもらった事を思い出して、気を取り直して話をしてみようと試みたりしています。とはいっても、そうなる場合は大抵が、そもそもその人とかみ合わないと感じていることがほとんどでして、更に嫌な気分に終わることもあれば、納得の上で互いに距離を図る場合もあります。

でもね、特に近年は同調か排除の2者択一しかない人が増えてきて、全く暮らしにくい社会だぜと思わず毒づきたくなるんですよ。それでなくても元々集団に埋もれるのが良しとされる息苦しい社会(私にとっては)なのに。

「和(輪)」の日本を離れ、「個」の世界へ出た方々はきっと様々な苦労や失敗を糧に器を大きくしていったのでしょうね。その道のりに思いを馳せつつ、私はその懐の深さを素敵だなと感じます。

動物は引き算しない

2017.10.20【 日々の出来事
桜でんぶ(仮名)に後でお灸してやろうと思ったのに、その日は忘れてしまいました。棒灸は今や体調を維持するのには結構重要なケアとなっておりまして、それを忘れた自分に「あーあ」。

でもね、動物は「~してくれなかった」とは考えないから大丈夫。他者と比べて「あれをしてくれない」「これをしてくれない」と不満に思うのは人間だけです。動物は「してくれた」ことに対して感謝を抱くのみ。足し算の思考です。

もちろん約束したなら守らないとクレーム付きますよ。約束は、相手が人間だろうが動物だろうが、大人だろうが子供だろうが、守らないと。

ただ、それでも、事情があってどうしても守れなかったのであればそれは理解してくれるはず。

人間同士だと、行動に対して引き算して相手を見てしまう事が多いのですが、常に足し算で見てくれる動物を見習いたいものです。そういう思考回路を維持できれば人間関係もずいぶん気持ちよくなるだろうなと思います。

条件付きでしか人を愛せない

2017.09.23【 人生を歩こう
以前は母に対してこう憤っていました。
「あの人は条件付きでないと子供や孫を愛せないんだ。他者から評価されるくらい優秀でないと愛さない。無条件の愛なんて遠い話なんだ」

その、これっぽっちも話したくないと思っていた母が意思疎通の取れない状態になって私は、驚くほどすんなりと母を受け入れました。なぜならば、今の母は私にとって害のない存在だからです。しゃべれないからね。毒を吐くこともない。

そして気付いてしまいました。
自分だって条件付きでしか愛してないじゃん。
無条件になんて受け入れてないし。実害が無くなったから良しとしただけでしょ。
それって母親と同じじゃないの。同じ穴のムジナじゃないの。

所詮、私は条件付きでしか愛せない、その程度の人間なのです。忌み嫌っていたかつての母親と表面的な差こそあれ同じ質だったのです。

母を嫌っていたのは自分の中の同質性を嫌っていたのか。所詮、私なんてこんなもん。はぁぁぁぁ…。

それでも、こうして母が生きている内に向き合う時間を与えられたことは幸せだと思っています。
「ああ、あれは母の愛情だったんだな」「母も分からない中で精一杯だったんだな」と、かつてのエゴと愛情が混ざった母の行動の中から純粋な愛だけを認識して受け取ることができました。今のような心境に至るのが母亡き後だったら、後悔として残るでしょう。それが、生きている内にたどり着けたおかげで、悔いにはなりません。

気に入らない他者とは縁を切ることだってできるけれど、自分自身とはそれができません。死ぬまで一緒(笑)。「所詮こんなレベルの自分」と、これからも付き合っていきます。

母は今、人生の長い夏休みを過ごしています。止まることなく全力で走り続けてきた人生の、やっと訪れた夏休み。それを終えたら逝ってしまうんだろうな。

死に目に会えるか否か

2017.09.01【 人生を歩こう
父親の事を書いていて思いました。母の死に目に会えなくても仕方ないけど、ここまで共に頑張ってきた夫の最期は看取りたいな、旅立ちの瞬間には立ち会いたいなと。

が、次の瞬間、経験がフィードバック。
最期の瞬間を見せるかどうかは本人次第。いくら周りがそれを望んでも本人が望まなければそれは実現しない。

これ、20回を超える看取り経験でつかんだ実感と、ACによってよその動物たちから教えられたことです。

「元気いっぱいな姿だけ覚えていてほしかった。だから最期の姿は見せたくなかった」
そう話してくれたコは、飼い主さんがトイレへ立った隙に逝ってしまいました。飼い主さんがその数分をどれほど悔やんでも、本人がノーなら実現しないことなのです。

私と上の姉だけが父の最期に立ち会えなかったのは、何か理由があったのかもしれません。
夫は立ち会わせてくれるかな。その前に多分、桜でんぶ(仮名)が逝くだろうから、彼女はどうだろう。いやいや、私自身、どんな最期を望むんだ?

つらつらと考えております。

過去の痛い思いを糧にして強く生きる

2017.08.30【 人生を歩こう
先に書いたレイラの事故と並ぶ大きな体験があります。それは、父の死に目に会えなかったこと。

当時、私は一人暮らしをする学生で、父危篤連絡を受け学校を休み帰省していました。日曜日に実家へ急行し、父が亡くなったのが水曜日の夜。3日間ずっと待機していたのに、親戚間の連絡行き違いにより、私と上の姉だけが間に合いませんでした。

親戚だけでなくご近所さんや仕事関係の人まで揃った病室前を眺めながら、この人たちは父の最期を看取れたのになぜ娘の私達だけがその場に立ち会うことができなかったのだろう…と納得いかない気持ちでした。

で、思ったわけです。どんなに準備して構えていても、間に合わない時は間に合わない。すり抜ける時はすり抜ける。きっと人生ってそういうもの。

以来、例えば電車に乗っていて「間に合わないかも」などと不安になったらこう考えるようにしています。それは父親の死に目に会う以上の重大事か?と。この先、それと同じレベルの重大事は母の危篤や訃報となるでしょうが、父にできなかったのだから母にできなくても仕方ないかなと思っています。

携帯電話を持たない生活もこれによって成り立っています。
いつでもどこでも連絡が取れる時代にそれができない事でどれだけの不都合があるのか。「○○の連絡が来なかったら・遅れたら」の○○に該当する部分は、人の生死に関わる事と比べたら大したことじゃない。本当に重要な緊急連絡なんて人生で数える程。

「あれができたのだからこれもきっとできる」というレイラの事故に関する考え方とはある意味、逆で「あれができなかったのだから、これができなくても別に大したことない」、そんな感じ。

人生において大事だと思うことから順位をつけていって、4位以下は特に、結果にしがみつかないようにすれば楽になります。その大切さという順位を認識するうえで、痛い思いというのは非常に分かりやすい(比べやすい)のです。

※念のため追記
準備や努力を否定するのではありません。今の自分にできる事を精一杯した上で、結果が思い通りにならなくても受け入れるようにしているというだけの話です。

言葉より行動

2017.07.24【 人生を歩こう
この頃は、人を見る時にその人の言葉より行動に注目しています。最近とみに、社交辞令を超えて口(メール等含む)の上手い人が多いから。言葉であっても、心の底から出てくる言葉には伝わるものがありますが、そうでないことは日常で多々あります。

で、色々考えてみたのです。何で言葉だけが出てくるのか。それを信用できないのか。

動く気がないから口先だけ動かすのでしょうね。行動しない人ほど口がよく動く傾向にあります。口も行動も活発なエネルギッシュな人はもちろんいるでしょうけど。

興味もないのに興味を示す振りなんてしなくていいのです。「あ、この人は口だけだな」と大体分かるので、その場で調子を合わせたりお世辞言ったりは意味ないですよ。日常会話でまで他者の言葉に「イイネ」をつける必要はありません。それって自分の信用を落とすだけ。

せめて「共感」で止めておけばいいのに、同調して行動するかのように表現してしまうからいかんのです。
そもそも、思ってもいないのに同調する(振りをしあう)今の風潮は気持ち悪い。といっても、共感できない事を否定・拒絶するのも違うと思いますが。

それはさておき。人間って、本当にやりたいことは黙ってさっさとやるし、人にいちいち言わずに行動するもの。どうすればやれるかなと考えている時はしゃべりません。

逆に言えば口が動く時は、本当は大して行動する気(あるいは興味)はないのだと自覚すると、色々楽になりますよ。それだったら口も体も動かさなきゃいいんだもん。

相手が喜びそうだという理由で言葉を選ばないように、私は気を付けています。
まず考えるべきは、自分がどう感じてそれをどう伝えたいか(伝えないという選択もあり)。人がどう感じるかはその次。そうすればたとえ反対意見であっても、自分の思うところを伝えつつ、相手を否定しない言い方に向いていくと思います。

抵抗バンザイ

2017.07.13【 人生を歩こう
何かやりたいと思った時、すんなりとはいかないことがあります。その時こそが自分に問う絶好の機会だと思うのです。
「自分は本当にこれをやりたいのか」
「誰かの反対を押し切ってでも、面倒を乗り越えてでも、やりたい気持ちがあるのか」

抵抗の強さ大きさには様々あって、もちろん自分の力ではどうにもならないような強大な力の場合もあります。それでも、進むか退くかを決めるのは自分。突進してみるも良し、一旦退いて再度チャンスを狙うも良し、「そこまでしてやりたいわけじゃなかったんだ」と気付いて本当にやりたいことへ進むのも良し。

より強くしなやかに生きていくトレーニングだと思うのですよ。抵抗があってこそ、人は成長するのでは。

逆に、何でも与えてくれる・やってくれる人のそばにいたら人間はダメになります。さほどではない興味であっても「ほら」と全て整えて与えられるような環境にあったら、できる子もできなくなりますって。時と場所と相手を選ばず先回りして与える人は他人をダメにする。世話好きな人はその辺よく考えてほしいなと、自分の姉を見ながら思います。

ちょっと話違うけど、今の日本社会って、ベッタベタに同調するか、存在することすら許さない程否定するかのどちらかに感じます。暮らしていて非常に心地悪い。

夫が定年退職したら国内の別の場所へ移住しようと考えていますが、最近は日本にげんなりすることが増えてきて、海外へ出ようかなとも思い始めました。