できない者の哀しみが分かるか

2017.10.18【 人生を歩こう
青山俊董さんの本を読み、講演会へ出席する機会に恵まれました。


その中で一番心に響いた言葉。飲み込みが早く賢い少女への危惧として紡いだ言葉。
「どんなに頑張ってもダメな生き方しかできない者の哀しみが分かるか。どんなに頑張っても地べたを這いずるようにしか生きられない人間の哀しみが分かるか」
頭をガツンと殴られたように感じました。そこに「哀しみ」があることに。

そして次の瞬間、私は心の中で叫んでいました。
「そんなもの分かりたくもない!」

それは母への感情であり、兄夫婦への感情でもありました。それ以外の他人に向けた感情ではなく、肉親に向いたものです。

自分がどれだけごう慢なのか認識せずにはいられませんでした。できない事をやるよう求め、それができなければ「なぜやらない」と憤る。理不尽以外の何物でもない。それでも尚、答えはNOなのです。私がどれだけ肉親に期待をしているのか、どれだけ厳しい目で見ているのか、分かると思います。そこに慈悲の心はこれっぽっちもありません。

所詮このレベル、の人間です。それでももがきながら生きていきます。

ちっともこの15年を振り返らない件;;

HP・ブログ閉鎖まで残り4ヶ月。なのにちっともレイラの事故やその後に関するあれこれを振り返らないで、いいのだろうか。

ええ、いいんです。だって私が見つめているのは「今」であって過去じゃないから。振り返るのは4年ほど前にHPでやったしね。

健康診断で訪れた動物病院の獣医師の初歩的ミスにより命を落とした可愛いうちのコ。
レイラの事故に関する出来事と向き合った日々は今の私にとって大きな糧となっています。例えば、「これは一体どうすればいいんだ」と頭を抱えるような問題にぶつかった時。にっちもさっちもいかない状況にもがいている時。自分に問いかけます。
「この問題とレイラの事故と、どっちが困難?レイラの死と比べてこれはもっと辛い内容か?」

答えはもちろん、レイラの事故の方が困難でそれに比べたらきっと乗り越えられる内容、です。

だって大切な者が誰も命を落としたわけじゃない。いくら辛くても苦しくても哀しくても腹立たしくても、私は何一つ大切な存在は失っていない。あの出来事を乗り越えたのだからこれも乗り越えられる。だから大丈夫。進め、自分。そう自分を励ましながら。

そして実際、頭を切り替えて乗り越えてきました。きれいに解決したことばかりではないけれども、自分にできる精一杯をやってそれでもう結果は手放してきました。思い通りの結果になるばかりじゃないよ。でもやれることを全力でやっての結果だから受け入れます。

これに限った話じゃないんですけど、
「○○があったから今の私がある」
「○○のおかげで」
なんて言葉を引っ張り出すことなく、もっと自然な形で言動に深みが表れたらいいなと思っています。真に過去を消化吸収していたらそうなるだろうと思うから。それに、何かを特別扱いするのって苦手なんで…。

このブログを書き始めた時は、方法論を紹介しようと考えていました。私が試してみて良いと思った手法を紹介することで同じような状況にある誰かの助けになるかもしれない、と。

ただ、今はこう考えています。
読む人には、方法論ではなく本質をつかんでほしい。方法論は枝葉末節。そこじゃなくて幹の部分を見つけてほしい。何を重視して何と向き合えばいいのかを考えながらその人に合った手法やそれを提供してくれる人物を探して試していけば、必ず朝は来るし、雲を突き抜けられるから。

好奇心を大切に

2017.07.08【 人生を歩こう
「やってみたい」と「やりたい」は違うと思います。
「やりたい」はその事柄を知っている、またはポジティブな確信を持っている時に出る言葉。
「やってみたい」はそれがどんなものか分からないけど興味を惹かれるから試してみたい時に出る言葉。

私は「やってみたい」を大切にしています。
それは未知の世界へ足を踏み入れることだから。それだけのエネルギーが自分の中にあるということだから。

やってみて、それで満足したり合わなければそこで止めればいいし、良さそうなら続けてみればいい。実際に行動して試してみなけりゃ分からない事、人生には山ほどありますがな。

心が疲れてくると好奇心が減っていきます。私は好奇心の強弱で自分の心の状態を判断しております。何を見ても聞いても「面白そう」「なんだ、これ♪」と思わなくなったら要注意。ケアが必要。過去にはそういう時期もありました。

また、桜でんぶ(仮名)は初めての物事に対して非常に神経質でした。未知のものに対し、好奇心より不安や恐怖心の方が強かったようです。うちに来て少しずつ感情を解放していく中で、今では好奇心が先に立つようになりました。

もちろん今でも繊細過ぎる面は往々にしてありますし、怖がりでもあります。それでも不安より好奇心が勝る暮らしは楽しいだろうと思います。

方法論に陥らないためには本質をつかむこと

2017.07.06【 人生を歩こう
ホメオパシーにしてもACにしてもお手当・食養生にしても、何も考えずに書かれていることに従うだけだと方法論に陥ります。脳ミソ硬化状態でマニュアル通りの対応しかできなくなります。それってAI(人工知能)以下ですよ。

大事なのは、なぜそう書いてあるのか、何を根拠にそう判断しているのか、その意図するところは、一体何をどうしようとしているのか、それを考えながらやること。
やらずに考えるだけは×。それだと理屈を言うだけで行動しない人になっちゃうから。やりながら考えるべし。

書いてあることが全て正しいと思うのもどうかなと思います。だって、時代が変われば人間を取り巻く環境も変わるのだからそのケア方法だって変わってくる部分はあるでしょう。ホメオパシーでさえ、今よりシンプルな暮らしをしていた時代に確立されたクラシカルスタイルから、現代人のためのより複雑な手法が派生しているのだから。「絶対」なんて無い。

そうやって本質をつかんでいけば、書かれているのと違う状況に出くわしてもベターな選択ができると思います。何が重要か、何を優先すべきかを認識していればね。

シンプルに生きている人

2017.04.14【 人生を歩こう
TAKUTAKUというサイトで小さな家の記事を読んでいます。タイニーハウスと呼ぶようです。

そこで紹介されている人たちの生き方がとても好きです。先日読んで以来、心に留まっているのがこちらの言葉。自分で建てた家で、本当に必要な物は何か、本当に大事な事は何かを常に見つめて暮らしている方です。

どんな形式のタイニーハウスであれ、挑戦を恐れないでください。私が初めて太陽光発電システムを作ろうとしたときは、ジャンク品の寄せ集めで遊ぶようなものでした。今は友人の太陽光発電システムを作るのを手伝えるほどになりました。

何かビジョンや興味があるなら、完璧じゃなくても良いので、夢見ることをやめないでください。ちょっと乱雑になることを怖がらないでください。うちの家だって調べたら、線がそろってなかったり、水平がとれてなかったりしますよ。

最初から完璧を求めて0か100かしかない頭でっかちな人生なんて、息苦しいだけ。そういうのはもういい。日常の色んな場面で「難しそうだな」「できないだろうな」「でもやってみたい」と感じた時にこの言葉を思い出します。
紹介されているページはこちら

ミニマリストという言葉に関して言えば、物を持たない・少ないから良い、ではないと思うのです。問題は物の量ではなく自分はどう生きたいのか、そのためには何が必要かをしっかり認識しながら暮らすことで、要らない物事をそぎ落としていくことが大切。シンプルに生きるってそういうことじゃないのかなと思います。

シンプルに生きたい

2017.04.08【 人生を歩こう
うたたねをしていた寝覚め際、不思議な感覚に陥りました。まるで犬になったような。寝そべりながら床から見上げ、飼い主の様子を伺っているような。隙があれば(笑)すぐさま遊びに誘おうと。

あれ、私、今、桜でんぶ(仮名)になってる?ヤツはそこにいるけど。

そこには「ねばならぬ」も「べき」もありませんでした。ただひたすら好きなことと幸せなことが並んだ時間。病院は嫌だけど(笑)。

10年くらい前読んだACの本に「四足で歩いてみたりして動物になりきってみる、その感覚を味わう」というレッスンがありました。その時はやってみてもできなかったけれども、あれってきっとこんな感じだろうなとこの時思いました。

そして次の瞬間、強く心が動きました。

シンプルに生きたい。
暮らしに必要なことと好きなことだけ。解放された自由な日々。
ああ、シンプルに生きたいな。なくてもいいものは全部放り出して。本当に必要なもの、本当に大切なもの、本当に好きなものを少しだけ持ってそれ以外は手放す。今持っているものの多くは、なくてもいい。

私の父は働き盛りの50代で亡くなりました。夫の父は定年退職から2年、正確には再就職したので定年後の余暇という時間に入ることなく亡くなりました。「定年になったら」「〇〇になったら」という時間は、もしかしたらないかもしれません。それどころか、明日が来る「保証」すらないのだわ。だったらその時が来るのを待つことなく、今すぐ始めればいい。自分の望む生き方に向かって、今できることをひとつでも始めてみればいいんじゃないかと思ったのです。

全て放り出すわけじゃありません。人にはそれぞれ事情があって背負う荷物もありますから。
今の生活と折り合いを付けながら、今できることをできる範囲でやってみる。それだけで人生は動くのではないかなと思うのです。

もしかしたら桜でんぶ(仮名)からのメッセージだったのかもしれません。いちいちACはしないけれどもちゃんと伝わっているからOK。


穏やかな時間

2017.03.07【 人生を歩こう
月1回、母が入所する施設へ会いに行きます。夫も同行してくれて、桜でんぶ(仮名)は車で待機。その後は河原を散歩できるからお楽しみの時間なのです。多分ね。

母のベッド脇に座り夫とあれこれ話をします。合間合間に「お母さん、〇〇だってよ」などと母も話に引っ張り込むようにして。母と話ができるわけでもないし、母の意識は宙を漂っているわけですが、こうしていると3人でおしゃべりしているような気になります。

とても穏やかな時間。母はきっと、こういう家族だんらんをしたかったのだろうなと思います。私たちとではなく本来の家族(息子夫婦や孫たち)と。

まあ、それを逆方向へ持って行ったのは他でもない母自身だし、やり直す機会を何度も通り過ぎたのだって母自身なので、仕方ないかなとも思いますが。私だってかつての母とは話なんてしたくありませんでした。毒をまき散らしているかのような状態でしたからね。今こうして(ひどい言い方だけど)害のない存在になったからこそ、一緒にすごせるわけで。

そんな昔の事はもう良しとして、最期の時間をこうして静かに和やかに過ごせるのはありがたいことです。母がこういう状態になったからこそ、共に幸せな時間を過ごせるようになりました。きっと母も喜んでいるでしょう。

私も夫も母もハッピー。ついでに犬も家族でお出掛けの機会が増えてハッピーなのでした。