やり直すチャンスをくれる人

2017.11.16【 人生を歩こう
太尾和子さんや上原英子さんのような、海外在住の日本人の方とやり取りしていると、しみじみ「これっていいなぁ」と思う瞬間があります。

そのひとつが、話し合いに応じてくれること。といっても話し合いなんて大げさな事態に至ったことはないんですが、互いの意見を出し合うことが基本で、こちらが誤った対応をしてしまった時でも話をさせてくれるのです。その中で私自身がどこで何を間違えたのか認識できますし、何より、一度失敗したからって切り捨てられることがありません。やり直すチャンスをくれるのです。

日本に住む日本人同士だと、なかなかそうはいかないことが多いですね。もちろん話をしてくれる人はいるし、そういう人とは長くお付き合いを続けていけるのですが、そうでないことが多いと感じています。「いいよ。もういいから」が実は全然良くなくて、一度失敗したら、あるいはイエスでない意見や質問を出したらそれっきり遮断。話もさせてもらえない。

実はこれ、他人事ではなく、私自身もそういう面が顔を出すことがあります。で、自分がしてもらった事を思い出して、気を取り直して話をしてみようと試みたりしています。とはいっても、そうなる場合は大抵が、そもそもその人とかみ合わないと感じていることがほとんどでして、更に嫌な気分に終わることもあれば、納得の上で互いに距離を図る場合もあります。

でもね、特に近年は同調か排除の2者択一しかない人が増えてきて、全く暮らしにくい社会だぜと思わず毒づきたくなるんですよ。それでなくても元々集団に埋もれるのが良しとされる息苦しい社会(私にとっては)なのに。

「和(輪)」の日本を離れ、「個」の世界へ出た方々はきっと様々な苦労や失敗を糧に器を大きくしていったのでしょうね。その道のりに思いを馳せつつ、私はその懐の深さを素敵だなと感じます。

できない者の哀しみが分かるか

2017.10.18【 人生を歩こう
青山俊董さんの本を読み、講演会へ出席する機会に恵まれました。


その中で一番心に響いた言葉。飲み込みが早く賢い少女への危惧として紡いだ言葉。
「どんなに頑張ってもダメな生き方しかできない者の哀しみが分かるか。どんなに頑張っても地べたを這いずるようにしか生きられない人間の哀しみが分かるか」
頭をガツンと殴られたように感じました。そこに「哀しみ」があることに。

そして次の瞬間、私は心の中で叫んでいました。
「そんなもの分かりたくもない!」

それは母への感情であり、兄夫婦への感情でもありました。それ以外の他人に向けた感情ではなく、肉親に向いたものです。

自分がどれだけごう慢なのか認識せずにはいられませんでした。できない事をやるよう求め、それができなければ「なぜやらない」と憤る。理不尽以外の何物でもない。それでも尚、答えはNOなのです。私がどれだけ肉親に期待をしているのか、どれだけ厳しい目で見ているのか、分かると思います。そこに慈悲の心はこれっぽっちもありません。

所詮このレベル、の人間です。それでももがきながら生きていきます。

人生をあきらめない

2017.10.10【 人生を歩こう
このブログを読んでいる方の多くに役立つと思うので紹介します。

友人の上原英子さんはアドラー心理学を学びカナダでアートセラピストとして活動しています。年1回は帰国して日本各地で講座を開催。

その英子さん、お父さんが亡くなりお母さんが亡くなり、一人っ子の彼女は血縁という牢獄から解放されました。これはご本人が公言していることでして、同じ境遇にある人の励みになればと公開してくれている情報です。血の呪縛から解放されると人はこんなに軽やかに飛べるのだ、と今の英子さんを見て感じます。


私は幼い頃から慢性的に罵詈雑言を母から浴びせられていました。

何かで感情的になると、私を標的にして怒鳴り散らす。
それは日常茶飯事で、食卓が墓場のように感じられていました。

私は、読んだり聴いたり話したり書いたりする時に用いる
「言葉というもの」がとても氣になります。

それは子どもの頃から文学好きで本の虫だったからだけでなく、
母からの言葉による虐待の後遺症でもあります。

今でも自分が大切に感じている人から、

「バカ!」
「よくやるよ~」
「何やってんの?」

などの言葉が投げかけられると、心がズキッと痛みます。

後で相手が非礼を詫びてくる時もありますが、
相手の心ない言葉が私の心に起こした衝撃はずっと残ります。

相手が傷つく言葉を言った人は、そのできごとを忘れても、
言われた人は忘れないのです。

ここまでの内容は、私は親から受けた言葉の虐待によって
言葉自体に過敏になり、対人関係でも傷つきやすくなり、
人生が生き難くなったという面が浮き彫りになるだけですが、

違うアングルから見てみると、言葉をフォーカスしてきた
体験から、私は言葉に対する繊細さを発達させました。

そして、そのセンスを活かして、詩・文章書きなど言葉による
芸術的表現を研ぎ澄ませようとしたり、相手に分かりやすく
説明的に話すよう心掛けることができるようになったのです。

それは、私が心理療法家・講師、ライターとしての仕事の
能力を発揮する時に大いに活躍してくれています。

だからといって、母から言葉の暴力を受けてよかった、
そのことに感謝しているということはないけれど、

一見したら辛かった体験を後からどう活かしていくかは、
自分次第なんですね!

~☆~~~☆~~~☆~~~☆~~~☆~~~☆~~~☆~

「この絵は私が今まで見た最も印象的なものの中のひとつ。
よく見てあなたの子どものために、あなたの言動を見直して!

子のマインドは傷つきやすく感情は深く影響を受けやすい。
だから、言葉によって子どもの精神を壊さないで!
一度口に出した言葉は元に戻せないのだから」

機能不全家族(子供が子供として安全に暮らせない家庭)で育ったことは私も同じですが、私は少なくとも子供への虐待も自分を否定されて育つこともなく、また別の問題はあったにしろ、彼女の置かれた境遇に比べたらずっとましな状況でした。

しかし今の英子さんからは、そのトラウマから来る歪みを感じません。影響はもちろん残っていますよ。でも、それは経験を経た強みとして吸収されています。苦難を乗り越えたんですね。これってすごいことなんです、この虐待レベルで考えたら。非常に困難な道を、自分の心と向き合い、諦めずに歩んできたことがうかがえます。

人生をあきらめない。自分をあきらめない。
立ち上がれない時はそのままじっとしていればいい。立ち上がる力の戻るその時まで。

嵐の最中で「自分は不当な扱いを受けている」と気付ける子供なんていないと思います。ただ、嫌だ、辛い、ここから逃げたいという思いに突き動かされて行動するのみ。自分の置かれた状況を認識できるのは、ひと段落ついて、過去を振り返った時です。

そしてひと段落つけるためには、肉親と距離を置くことです。精神的な距離を保てないなら物理的に離れればいい。少なくとも肉親や親戚の活動範囲から外れた区域へ出る事です。できるだけ遠くへ。
※遠くにいてもSNSで関わっていたら意味ないよ。

私も海外で暮らそうと2回ほど目論みましたが、その度に強力な引き戻しにあい、振り切ることができませんでした。田舎の血縁地縁の強さは尋常ではありませんから。それでも、肉親の住む地域を離れただけでかなり楽になりました。そして斎藤学さんの「アダルト・チルドレンと家族」という本に出会い、人生を転換させました。



人生をあきらめずに、自分を捨てずに頑張ったら、英子さんみたいになれるんです。今、苦しんでいる人はどうぞ希望を持ってください。

条件付きでしか人を愛せない

2017.09.23【 人生を歩こう
以前は母に対してこう憤っていました。
「あの人は条件付きでないと子供や孫を愛せないんだ。他者から評価されるくらい優秀でないと愛さない。無条件の愛なんて遠い話なんだ」

その、これっぽっちも話したくないと思っていた母が意思疎通の取れない状態になって私は、驚くほどすんなりと母を受け入れました。なぜならば、今の母は私にとって害のない存在だからです。しゃべれないからね。毒を吐くこともない。

そして気付いてしまいました。
自分だって条件付きでしか愛してないじゃん。
無条件になんて受け入れてないし。実害が無くなったから良しとしただけでしょ。
それって母親と同じじゃないの。同じ穴のムジナじゃないの。

所詮、私は条件付きでしか愛せない、その程度の人間なのです。忌み嫌っていたかつての母親と表面的な差こそあれ同じ質だったのです。

母を嫌っていたのは自分の中の同質性を嫌っていたのか。所詮、私なんてこんなもん。はぁぁぁぁ…。

それでも、こうして母が生きている内に向き合う時間を与えられたことは幸せだと思っています。
「ああ、あれは母の愛情だったんだな」「母も分からない中で精一杯だったんだな」と、かつてのエゴと愛情が混ざった母の行動の中から純粋な愛だけを認識して受け取ることができました。今のような心境に至るのが母亡き後だったら、後悔として残るでしょう。それが、生きている内にたどり着けたおかげで、悔いにはなりません。

気に入らない他者とは縁を切ることだってできるけれど、自分自身とはそれができません。死ぬまで一緒(笑)。「所詮こんなレベルの自分」と、これからも付き合っていきます。

母は今、人生の長い夏休みを過ごしています。止まることなく全力で走り続けてきた人生の、やっと訪れた夏休み。それを終えたら逝ってしまうんだろうな。

死に目に会えるか否か

2017.09.01【 人生を歩こう
父親の事を書いていて思いました。母の死に目に会えなくても仕方ないけど、ここまで共に頑張ってきた夫の最期は看取りたいな、旅立ちの瞬間には立ち会いたいなと。

が、次の瞬間、経験がフィードバック。
最期の瞬間を見せるかどうかは本人次第。いくら周りがそれを望んでも本人が望まなければそれは実現しない。

これ、20回を超える看取り経験でつかんだ実感と、ACによってよその動物たちから教えられたことです。

「元気いっぱいな姿だけ覚えていてほしかった。だから最期の姿は見せたくなかった」
そう話してくれたコは、飼い主さんがトイレへ立った隙に逝ってしまいました。飼い主さんがその数分をどれほど悔やんでも、本人がノーなら実現しないことなのです。

私と上の姉だけが父の最期に立ち会えなかったのは、何か理由があったのかもしれません。
夫は立ち会わせてくれるかな。その前に多分、桜でんぶ(仮名)が逝くだろうから、彼女はどうだろう。いやいや、私自身、どんな最期を望むんだ?

つらつらと考えております。

過去の痛い思いを糧にして強く生きる

2017.08.30【 人生を歩こう
先に書いたレイラの事故と並ぶ大きな体験があります。それは、父の死に目に会えなかったこと。

当時、私は一人暮らしをする学生で、父危篤連絡を受け学校を休み帰省していました。日曜日に実家へ急行し、父が亡くなったのが水曜日の夜。3日間ずっと待機していたのに、親戚間の連絡行き違いにより、私と上の姉だけが間に合いませんでした。

親戚だけでなくご近所さんや仕事関係の人まで揃った病室前を眺めながら、この人たちは父の最期を看取れたのになぜ娘の私達だけがその場に立ち会うことができなかったのだろう…と納得いかない気持ちでした。

で、思ったわけです。どんなに準備して構えていても、間に合わない時は間に合わない。すり抜ける時はすり抜ける。きっと人生ってそういうもの。

以来、例えば電車に乗っていて「間に合わないかも」などと不安になったらこう考えるようにしています。それは父親の死に目に会う以上の重大事か?と。この先、それと同じレベルの重大事は母の危篤や訃報となるでしょうが、父にできなかったのだから母にできなくても仕方ないかなと思っています。

携帯電話を持たない生活もこれによって成り立っています。
いつでもどこでも連絡が取れる時代にそれができない事でどれだけの不都合があるのか。「○○の連絡が来なかったら・遅れたら」の○○に該当する部分は、人の生死に関わる事と比べたら大したことじゃない。本当に重要な緊急連絡なんて人生で数える程。

「あれができたのだからこれもきっとできる」というレイラの事故に関する考え方とはある意味、逆で「あれができなかったのだから、これができなくても別に大したことない」、そんな感じ。

人生において大事だと思うことから順位をつけていって、4位以下は特に、結果にしがみつかないようにすれば楽になります。その大切さという順位を認識するうえで、痛い思いというのは非常に分かりやすい(比べやすい)のです。

※念のため追記
準備や努力を否定するのではありません。今の自分にできる事を精一杯した上で、結果が思い通りにならなくても受け入れるようにしているというだけの話です。

言葉より行動

2017.07.24【 人生を歩こう
この頃は、人を見る時にその人の言葉より行動に注目しています。最近とみに、社交辞令を超えて口(メール等含む)の上手い人が多いから。言葉であっても、心の底から出てくる言葉には伝わるものがありますが、そうでないことは日常で多々あります。

で、色々考えてみたのです。何で言葉だけが出てくるのか。それを信用できないのか。

動く気がないから口先だけ動かすのでしょうね。行動しない人ほど口がよく動く傾向にあります。口も行動も活発なエネルギッシュな人はもちろんいるでしょうけど。

興味もないのに興味を示す振りなんてしなくていいのです。「あ、この人は口だけだな」と大体分かるので、その場で調子を合わせたりお世辞言ったりは意味ないですよ。日常会話でまで他者の言葉に「イイネ」をつける必要はありません。それって自分の信用を落とすだけ。

せめて「共感」で止めておけばいいのに、同調して行動するかのように表現してしまうからいかんのです。
そもそも、思ってもいないのに同調する(振りをしあう)今の風潮は気持ち悪い。といっても、共感できない事を否定・拒絶するのも違うと思いますが。

それはさておき。人間って、本当にやりたいことは黙ってさっさとやるし、人にいちいち言わずに行動するもの。どうすればやれるかなと考えている時はしゃべりません。

逆に言えば口が動く時は、本当は大して行動する気(あるいは興味)はないのだと自覚すると、色々楽になりますよ。それだったら口も体も動かさなきゃいいんだもん。

相手が喜びそうだという理由で言葉を選ばないように、私は気を付けています。
まず考えるべきは、自分がどう感じてそれをどう伝えたいか(伝えないという選択もあり)。人がどう感じるかはその次。そうすればたとえ反対意見であっても、自分の思うところを伝えつつ、相手を否定しない言い方に向いていくと思います。