過去の痛い思いを糧にして強く生きる

2017.08.30【 人生を歩こう
先に書いたレイラの事故と並ぶ大きな体験があります。それは、父の死に目に会えなかったこと。

当時、私は一人暮らしをする学生で、父危篤連絡を受け学校を休み帰省していました。日曜日に実家へ急行し、父が亡くなったのが水曜日の夜。3日間ずっと待機していたのに、親戚間の連絡行き違いにより、私と上の姉だけが間に合いませんでした。

親戚だけでなくご近所さんや仕事関係の人まで揃った病室前を眺めながら、この人たちは父の最期を看取れたのになぜ娘の私達だけがその場に立ち会うことができなかったのだろう…と納得いかない気持ちでした。

で、思ったわけです。どんなに準備して構えていても、間に合わない時は間に合わない。すり抜ける時はすり抜ける。きっと人生ってそういうもの。

以来、例えば電車に乗っていて「間に合わないかも」などと不安になったらこう考えるようにしています。それは父親の死に目に会う以上の重大事か?と。この先、それと同じレベルの重大事は母の危篤や訃報となるでしょうが、父にできなかったのだから母にできなくても仕方ないかなと思っています。

携帯電話を持たない生活もこれによって成り立っています。
いつでもどこでも連絡が取れる時代にそれができない事でどれだけの不都合があるのか。「○○の連絡が来なかったら・遅れたら」の○○に該当する部分は、人の生死に関わる事と比べたら大したことじゃない。本当に重要な緊急連絡なんて人生で数える程。

「あれができたのだからこれもきっとできる」というレイラの事故に関する考え方とはある意味、逆で「あれができなかったのだから、これができなくても別に大したことない」、そんな感じ。

人生において大事だと思うことから順位をつけていって、4位以下は特に、結果にしがみつかないようにすれば楽になります。その大切さという順位を認識するうえで、痛い思いというのは非常に分かりやすい(比べやすい)のです。

※念のため追記
準備や努力を否定するのではありません。今の自分にできる事を精一杯した上で、結果が思い通りにならなくても受け入れるようにしているというだけの話です。

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