条件付きでしか人を愛せない

2017.09.23【 人生を歩こう
以前は母に対してこう憤っていました。
「あの人は条件付きでないと子供や孫を愛せないんだ。他者から評価されるくらい優秀でないと愛さない。無条件の愛なんて遠い話なんだ」

その、これっぽっちも話したくないと思っていた母が意思疎通の取れない状態になって私は、驚くほどすんなりと母を受け入れました。なぜならば、今の母は私にとって害のない存在だからです。しゃべれないからね。毒を吐くこともない。

そして気付いてしまいました。
自分だって条件付きでしか愛してないじゃん。
無条件になんて受け入れてないし。実害が無くなったから良しとしただけでしょ。
それって母親と同じじゃないの。同じ穴のムジナじゃないの。

所詮、私は条件付きでしか愛せない、その程度の人間なのです。忌み嫌っていたかつての母親と表面的な差こそあれ同じ質だったのです。

母を嫌っていたのは自分の中の同質性を嫌っていたのか。所詮、私なんてこんなもん。はぁぁぁぁ…。

それでも、こうして母が生きている内に向き合う時間を与えられたことは幸せだと思っています。
「ああ、あれは母の愛情だったんだな」「母も分からない中で精一杯だったんだな」と、かつてのエゴと愛情が混ざった母の行動の中から純粋な愛だけを認識して受け取ることができました。今のような心境に至るのが母亡き後だったら、後悔として残るでしょう。それが、生きている内にたどり着けたおかげで、悔いにはなりません。

気に入らない他者とは縁を切ることだってできるけれど、自分自身とはそれができません。死ぬまで一緒(笑)。「所詮こんなレベルの自分」と、これからも付き合っていきます。

母は今、人生の長い夏休みを過ごしています。止まることなく全力で走り続けてきた人生の、やっと訪れた夏休み。それを終えたら逝ってしまうんだろうな。

死に目に会えるか否か

2017.09.01【 人生を歩こう
父親の事を書いていて思いました。母の死に目に会えなくても仕方ないけど、ここまで共に頑張ってきた夫の最期は看取りたいな、旅立ちの瞬間には立ち会いたいなと。

が、次の瞬間、経験がフィードバック。
最期の瞬間を見せるかどうかは本人次第。いくら周りがそれを望んでも本人が望まなければそれは実現しない。

これ、20回を超える看取り経験でつかんだ実感と、ACによってよその動物たちから教えられたことです。

「元気いっぱいな姿だけ覚えていてほしかった。だから最期の姿は見せたくなかった」
そう話してくれたコは、飼い主さんがトイレへ立った隙に逝ってしまいました。飼い主さんがその数分をどれほど悔やんでも、本人がノーなら実現しないことなのです。

私と上の姉だけが父の最期に立ち会えなかったのは、何か理由があったのかもしれません。
夫は立ち会わせてくれるかな。その前に多分、桜でんぶ(仮名)が逝くだろうから、彼女はどうだろう。いやいや、私自身、どんな最期を望むんだ?

つらつらと考えております。

過去の痛い思いを糧にして強く生きる

2017.08.30【 人生を歩こう
先に書いたレイラの事故と並ぶ大きな体験があります。それは、父の死に目に会えなかったこと。

当時、私は一人暮らしをする学生で、父危篤連絡を受け学校を休み帰省していました。日曜日に実家へ急行し、父が亡くなったのが水曜日の夜。3日間ずっと待機していたのに、親戚間の連絡行き違いにより、私と上の姉だけが間に合いませんでした。

親戚だけでなくご近所さんや仕事関係の人まで揃った病室前を眺めながら、この人たちは父の最期を看取れたのになぜ娘の私達だけがその場に立ち会うことができなかったのだろう…と納得いかない気持ちでした。

で、思ったわけです。どんなに準備して構えていても、間に合わない時は間に合わない。すり抜ける時はすり抜ける。きっと人生ってそういうもの。

以来、例えば電車に乗っていて「間に合わないかも」などと不安になったらこう考えるようにしています。それは父親の死に目に会う以上の重大事か?と。この先、それと同じレベルの重大事は母の危篤や訃報となるでしょうが、父にできなかったのだから母にできなくても仕方ないかなと思っています。

携帯電話を持たない生活もこれによって成り立っています。
いつでもどこでも連絡が取れる時代にそれができない事でどれだけの不都合があるのか。「○○の連絡が来なかったら・遅れたら」の○○に該当する部分は、人の生死に関わる事と比べたら大したことじゃない。本当に重要な緊急連絡なんて人生で数える程。

「あれができたのだからこれもきっとできる」というレイラの事故に関する考え方とはある意味、逆で「あれができなかったのだから、これができなくても別に大したことない」、そんな感じ。

人生において大事だと思うことから順位をつけていって、4位以下は特に、結果にしがみつかないようにすれば楽になります。その大切さという順位を認識するうえで、痛い思いというのは非常に分かりやすい(比べやすい)のです。

※念のため追記
準備や努力を否定するのではありません。今の自分にできる事を精一杯した上で、結果が思い通りにならなくても受け入れるようにしているというだけの話です。

ちっともこの15年を振り返らない件;;

HP・ブログ閉鎖まで残り4ヶ月。なのにちっともレイラの事故やその後に関するあれこれを振り返らないで、いいのだろうか。

ええ、いいんです。だって私が見つめているのは「今」であって過去じゃないから。振り返るのは4年ほど前にHPでやったしね。

健康診断で訪れた動物病院の獣医師の初歩的ミスにより命を落とした可愛いうちのコ。
レイラの事故に関する出来事と向き合った日々は今の私にとって大きな糧となっています。例えば、「これは一体どうすればいいんだ」と頭を抱えるような問題にぶつかった時。にっちもさっちもいかない状況にもがいている時。自分に問いかけます。
「この問題とレイラの事故と、どっちが困難?レイラの死と比べてこれはもっと辛い内容か?」

答えはもちろん、レイラの事故の方が困難でそれに比べたらきっと乗り越えられる内容、です。

だって大切な者が誰も命を落としたわけじゃない。いくら辛くても苦しくても哀しくても腹立たしくても、私は何一つ大切な存在は失っていない。あの出来事を乗り越えたのだからこれも乗り越えられる。だから大丈夫。進め、自分。そう自分を励ましながら。

そして実際、頭を切り替えて乗り越えてきました。きれいに解決したことばかりではないけれども、自分にできる精一杯をやってそれでもう結果は手放してきました。思い通りの結果になるばかりじゃないよ。でもやれることを全力でやっての結果だから受け入れます。

これに限った話じゃないんですけど、
「○○があったから今の私がある」
「○○のおかげで」
なんて言葉を引っ張り出すことなく、もっと自然な形で言動に深みが表れたらいいなと思っています。真に過去を消化吸収していたらそうなるだろうと思うから。それに、何かを特別扱いするのって苦手なんで…。

このブログを書き始めた時は、方法論を紹介しようと考えていました。私が試してみて良いと思った手法を紹介することで同じような状況にある誰かの助けになるかもしれない、と。

ただ、今はこう考えています。
読む人には、方法論ではなく本質をつかんでほしい。方法論は枝葉末節。そこじゃなくて幹の部分を見つけてほしい。何を重視して何と向き合えばいいのかを考えながらその人に合った手法やそれを提供してくれる人物を探して試していけば、必ず朝は来るし、雲を突き抜けられるから。

大型犬連れでもう一度泊まりたい宿

2017.07.25【 旅の話
桜でんぶ(仮名)を連れての宿選びは選択肢が狭い上に条件がシビアで、大変でした。ですがそのおかげで素晴らしい宿とも出会えました。

もし桜でんぶ(仮名)が昔のような元気を保っていたならもう一度訪れたいなと思える宿をピックアップしてみました。ほとんどコテージです。全国には同じく素晴らしい宿がたくさんあるから、これはほんの一部ですけども。


KOYOはHPが無くなっちゃいました。管理人のおばちゃん元気にしてるかなぁ。

我が家の宿泊条件はこんなところです。警戒心が強く敏感で吠える、足の悪い大型犬。
  • 大型犬OK(もちろん室内も)、ただしベッドには入らない
  • 通路が他室と共有でない(人の気配に強く反応するから)、つまり戸建て
  • 室内では家族だけ(部屋に他人がいるとひどく警戒する)→伊豆子は例外
  • 長い階段と高い段差はNG
  • 駐車場から部屋までできるだけ近い(大型犬は荷物が大きい)
  • 予算1泊1万5000円以内(室料のみ)

犬連れで楽しい思い出が残る場所へ、犬がいなくなってから行くのは勇気がいります。だから桜でんぶ(仮名)がいなくなったら上記の宿は(心理的に)もう行けないかもしれないなぁと思うのです。でもそこを乗り越えれば人間だけでも再訪したい宿でもあります。

尚。今年いっぱいでこのブログは閉鎖しますので、もし心惹かれた宿があったら自分でブックマークしておいてください。

言葉より行動

2017.07.24【 人生を歩こう
この頃は、人を見る時にその人の言葉より行動に注目しています。最近とみに、社交辞令を超えて口(メール等含む)の上手い人が多いから。言葉であっても、心の底から出てくる言葉には伝わるものがありますが、そうでないことは日常で多々あります。

で、色々考えてみたのです。何で言葉だけが出てくるのか。それを信用できないのか。

動く気がないから口先だけ動かすのでしょうね。行動しない人ほど口がよく動く傾向にあります。口も行動も活発なエネルギッシュな人はもちろんいるでしょうけど。

興味もないのに興味を示す振りなんてしなくていいのです。「あ、この人は口だけだな」と大体分かるので、その場で調子を合わせたりお世辞言ったりは意味ないですよ。日常会話でまで他者の言葉に「イイネ」をつける必要はありません。それって自分の信用を落とすだけ。

せめて「共感」で止めておけばいいのに、同調して行動するかのように表現してしまうからいかんのです。
そもそも、思ってもいないのに同調する(振りをしあう)今の風潮は気持ち悪い。といっても、共感できない事を否定・拒絶するのも違うと思いますが。

それはさておき。人間って、本当にやりたいことは黙ってさっさとやるし、人にいちいち言わずに行動するもの。どうすればやれるかなと考えている時はしゃべりません。

逆に言えば口が動く時は、本当は大して行動する気(あるいは興味)はないのだと自覚すると、色々楽になりますよ。それだったら口も体も動かさなきゃいいんだもん。

相手が喜びそうだという理由で言葉を選ばないように、私は気を付けています。
まず考えるべきは、自分がどう感じてそれをどう伝えたいか(伝えないという選択もあり)。人がどう感じるかはその次。そうすればたとえ反対意見であっても、自分の思うところを伝えつつ、相手を否定しない言い方に向いていくと思います。

NO!Baby Communication

太尾和子さんが珍しく憤慨していらっしゃいまして。ブログの内容を読んで、なるほどと思いました。ACをかじった人が、言葉を話し始める前の赤ちゃんと接触して親に言葉を伝えるという商売をしているらしいのです。

検証ができないからその正確性は全く分からないとか、子供の未来を果てしなく限定してしまうリスクとか、たくさんの問題を持った行為だと思います。私の心に一番強く反応したのはこんな内容。
親がBaby communicationで知らされた内容を信じこんで、その子の目的のために「ピアノの練習をさせること」に固執するあまり、本来子どもを育てていくのに一番大切なことが置き去りにされてしまうかもしれないのです。(中略)子どもたち一人一人にはもっと多様な可能性があるのです。
詳しくは太尾さんのブログをどうぞ。

私はテレパシー利用についてこんな風に考えています。

人間は言語というコミュニケーション手段を使って生きる生物です。そうである以上、人間同士は可能な限り言葉で相手に伝えるべきだと思うのです。考えただけで相手が理解して何かしてくれるような環境は、楽でしょうけれども、人をダメにする。どうすれば自分の意図が伝わるか一生懸命試行錯誤することに意義があると思うから。テレパシーでやり取りするのは死んでしまったり意識のない相手とだけでいいでしょう?

この話に限らず、自己肯定感を味わうために子供を利用するのはやめてほしいなと心底思います。